趣味など

【趣味1】マラソン。小さい頃から短距離は遅いが、長距離は得意(好き)。練習で100~150キロ/月走る。普段は家の近くを8キロぐらい、休みの日は池の周回コースに行って10~15キロ走る。2019年 黒部名水マラソンで初完走。同年ぐんまマラソン、奈良マラソン完走。2022年 長野マラソン完走

【趣味2】旅行。国内だと、大阪、沖縄、東京、滋賀が好き。ホテルでゆっくりして、朝走って、昼夜は地元の店にひとりで飲みにいくのが好き。海外は釜山、マカオ、シンガポールによく行く。近くて、日本人が全くいない空間だとストレスがとれる。以前はアメリカや欧州に興味があったが、今はアジア各国の雰囲気が好き。

【好きな食べ物】貝類、きのこ類、鮭かま、せせり、とり皮、地鶏たたき、ホルモン、練乳、プリン

【好きなアーティスト】浜田省吾、斉藤和義、ミスチル、The Birthday、スガシカオ、安全地帯、Grapevine

【好きな音楽】J-POP、クラッシックジャズ、スローブルース

【好きな映画】インセプション、新しき世界、セブン、パルプフィクション

【好きなテレビ番組】ワイドなショー、そこまで言って委員会NP、カンブリア宮殿

【好きなラジオ番組】辛坊治郎ズームそこまで言うか、飯田浩司のOK Cozy Up

【読んでる新聞】産経新聞、日本経済新聞

【サブスクしてるプログラム】Netflix、アマゾンPrime、Youtube、Spotify、TradingView、dマガジン

【乗ってる車】ボルボV40

【家族】母

【信念】責任を持ち結果を出さなければ仕事ではない

逆年表

行政書士として

2022年 名古屋ユーエス行政書士を開業。建設業許可を専門として仕事に邁進する。日商簿記3級取得

会社員時代

1988年 矢崎総業株式会社に入社。静岡県湖西市にあった第一開発本部に配属され、すぐに豊田分室に異動。担当はトヨタ車体向け部品の設計。専攻が化学科であったため、設計業務に慣れず、かなり苦労した。1992年 トヨタ自動車出向。2代目レクサスLSのフルモデルチェンジに際し、ワイヤーハーネス(※)設計を担当する。当時は仕事を教えてくれる上司や先輩もおらず、経験もない中で、全て自分で考え、強者ぞろいのトヨタ社員と折衝をし、設計を成立させなければならなかった。そのプロセスは自分にとってとんでもなくハードな日々であり、30年以上の会社員生活で最大の苦しみであった。その後は、仕事にも慣れ、カムリ、クラウンの主要なワイヤーハーネスの設計を担当。社内に戻り、ゼロクラウンのワイヤーハーネス開発のアシスタントマネージャーを務める。この仕事は社内の取りまとめ役であり、かなりハードであったが、なんとか務め上げる。その後、ワイヤーハーネスのコンペ担当となると同時に管理職を拝命。数車種のコンペを経験し、営業へ異動。トヨタ自動車向けの大規模なプレゼンテーションの事務局に就任する。これもまたハードな仕事であったが、その年、グローバル貢献賞など4賞を受賞。2007年 再びトヨタ自動車へ出向。あまりの激務に体調を壊し、1年間休職。管理職から一般職へ降格されるが、このまま終われないと奮起し、2年後に管理職に返り咲く。以来10年以上に渡り、5代目レクサスLSなど様々なワイヤーハーネス開発に携わる。(※)自動車用組電線

大学生時代

1983年 岐阜大学 工学部 合成化学科に入学。1年生の時は通学したが、2年生から卒業まで岐阜市内に下宿した。大学というところはクラスというものがほぼないため、内気なこともあり、友達作りに大変苦労した。そのため、コーラス部に無理して入ったりした。部活は本当に苦痛であった。この頃は孤独な自分の人間性にひどく悩んでいた。大学生活で楽しいと思った瞬間はほぼ無い。社会に出るのを1年間遅らせるため、大学を休んで留年。親をがっかりさせた。その後岐阜市にある万平という居酒屋のバイトを始める。1年間ほぼ皆勤であった。4年に進級し、工業化学第2講座(元島研)に所属し、卒業研究に取り組む。テーマは六塩化二ケイ素による窒化ケイ素ウィスカーの低温合成。偶然にコイル状の窒化ケイ素ウィスカーが合成された事により、成果が科学誌ネイチャーに掲載された。顕微鏡写真展の金賞も受賞した。(それがきっかけで、元島先生はその後カーボンマイクロコイルの研究で大きな業績を残された)。いよいよ社会に出る事を決意し、就職先に矢崎総業株式会社を選び採用された。

高校生時代

1980年 愛知県立日進高等学校に入学。名古屋市から鶴舞線、豊田新線、名鉄バスを乗り継ぎ3年間通学した。当時、日進高校は3年目の新設校であり、隣接する町にある有名校にならい、厳しい校則を敷いていた(頭髪は刈り上げなど)。部活は卓球部。地区大会に出場するもいずれも一回戦敗退。イップスにかかりラケットが思うように振れなくなる。部活のメンバーと知多半島の内海海岸に泊まりに行った際、夜中までギターをかき鳴らしていたため、民宿の方にひどく怒られた。親にデッキレコーダーを買ってもらい、音楽のエアチェックに励む。オフコース、浜田省吾、佐野元春、山下達郎をよく聴いていた。と同時に洋楽も流行っており、ビリージョエルやリンダロンシュタット等もよく聴いていた。父親との関係が悪くなり、大げんかの後全く口もきかず家庭内の雰囲気は最悪であった。父親に対する怒りを受験勉強のパワーに変えていた。共通一次試験で奇跡的に高得点がとれたため、岐阜大学を受験。私立は名城大学を受けた。

中学生時代

1977年 名古屋市立汐路中学校に入学。中1コースと学研の科学を購読する普通の中学生であった。部活は卓球部。ラジオを聴き始めベリカード収集にはまる。ニューミュージックが流行りはじめ、父親のクラシックギターを借りてギターを始める。最初に覚えた曲は、A,D,Eのスリーコードで弾ける、青葉城恋歌。その後フォークギター(ヤマハL5)を買ってもらう。2年生の時に盲腸をやって以降、成績が伸び悩み学年で100番以内に入れなくなる(友達からミケネコと呼ばれた)。内申書の点数が伸び悩んだが、どうしても公立に行きたいと思い、遠方の日進高校を受験。私学は愛知高校を受ける。無理して愛知を受けたため、受験前かなりナーバスになる。

小学生時代

1971年 名古屋市立陽明小学校に入学。その頃からひとり遊びが好きではあったものの、友達と野球や缶けり、ポコペンで遊ぶ普通の小学生であった。多くの名古屋の小学生同様ドラゴンズのファンであり、少年ドラゴンズ会員に入会。イヤーブックを熟読していた。板東英二の「燃えよドラゴンズ」は空で歌えた(はず)。ドラゴンズが近くの瑞穂グランドで自主トレを行っており、足を運んではサインをねだる少年であった(田尾選手はサインくれました)。10歳の時にドラゴンズが20年ぶりのリーグ優勝。長嶋茂雄選手の引退試合はドラゴンズ優勝後の消化試合であった。学校の成績はクラスで10番以内に時々入るレベルであった。

生い立ち

1964年10月7日 名古屋市立大学病院にて、上野家の長男として生まれる。会社員の父母と父の叔母の4人家族で育つ。住んだ家は高級住宅街にあったが、市営の木造2軒長屋で、夏はネズミや蛇が室内に出没するような古い家であった。同級生は社長や医者の子息が多く豪邸に住んでおり、少し肩身の狭い思いをする。大学1年生まで名古屋に住む。

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